縄文後期には農耕が組織化しています。 晩期は、現代より平均2~3度の寒冷化だったため、 農作物への被害で争いが生まれ、 貯蔵のための土器も運び安く、簡素になっていきました。 よく弥生文化は外国人がもたらした異文化だと言われていましたが、実際は縄文人が寒冷化に合わせて改善して生まれた文化だとわかってきています。 縄文土器は、半島でも大陸でも出土していて、 当時の縄文人の海洋文化圏の広さを物語っています。 揚子江南部で生まれた水稲も、縄文時代に船で運ばれたようです。 朝鮮半島では陸稲しか作られていないため、 今までの水稲伝来説は覆されています。 ソース顔や醤油顔も、縄文人の海洋文化圏の中で既にあったもので、縄文人と弥生人という民族の違いではなかったようです。 寒冷化が進む縄文晩期、 紀元前660年、初代神武天皇が即位し、 備蓄と戦いに備えた弥生文化への移行が広がっていきました。 さらに寒冷化した弥生時代、 紀元前247年、大陸の内陸部では秦の始皇帝の時代になり、 物々しさは深まっていきます。